私が弱いときにこそ、私は強いからです。
2コリ12:10
私が弱いときにこそ、私は強いからです。
クリスチャンは弱い者でしょうか?はい、そのとおりです。クリスチャンは弱いけれど不足している分をイエスさまが補ってくださるので結果的に弱いけれど強い、つまり強い味方がいるということになります。もちろんそれは完全に神に委ねることが前提です。神の前に自分が無力であることを認めるとき、神は喜んで働かれます。アーメン
私が弱いときにこそ、私は強いからです。
クリスチャンは弱い者でしょうか?はい、そのとおりです。クリスチャンは弱いけれど不足している分をイエスさまが補ってくださるので結果的に弱いけれど強い、つまり強い味方がいるということになります。もちろんそれは完全に神に委ねることが前提です。神の前に自分が無力であることを認めるとき、神は喜んで働かれます。アーメン
この女は、自分にできることをしたのです。
自分のなすべきことがわからないことってありませんか?そんな時、ただイライラしていても始まりませんよね。いくつか選択肢があるならば、そのことを思いながら聖書を開いてみましょう。聖書は直接的に答えをくださることもありますし、聖書を読み終わった時に得られる平安が思考をスムーズにしてくれることもあります。みことばは力です。アーメン
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この女は、自分にできることをしたのです。
その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。
預言や祈りの成就がいつなのかはだれにもわかりません。父なる神のみがご存じです。ですから私たちは「待つ」という姿勢を身につけなければなりません。ただ待つのではなく神に祈りつつ信頼し、みことばに従って待つのです。途中さまざまな惑わしがあるかもしれませんが、絶望することなく豊かに待ちのぞむ姿勢を身につけておきましょう。アーメン
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
何か問題をかかえたならば、私たちを強くしてくださる方であるイエスさまに解決を求めてみましょう。人間には限界があります。自分から目を離し、強くしてくださる方を仰ぐとき、ほんとうの平安がおとずれ、心が軽くなります。まことの神を知るならば、神の御力によってどんなことでもできるのです。アーメン
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
あなたは今何が欲しいですか?それは目に見えるものですか?聖書はあなたにイエス・キリストをさしあげようと語っています。目には見えませんが、いつまでもずっとあなたのものです。金銀とはちがって、あなたから離れてゆくこともありません。あなたの心を満たすものが常にイエス・キリストでありますように。アーメン
「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」
聖書を読み、祈りを怠らずに過ごしていたとしても、いざ困難がおそってきたときにいつまでも恐れているならば、それは机上の信仰でしかありません。信仰は用いてこそ信仰なのです。私たちは弱い者ですから自分の力で抵抗するのではなく、神に守られることで平安を得るのです。人を守るのは人の仕事ではなく神の仕事なのです。私たちは弱くてよいのです。アーメン
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「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、その悪い倉から悪い物を出します。
良い倉をお持ちですか?良い倉とはイエスさまのことです。良い倉を持つことができれば、人に悪口を言ったり、失礼な態度を取ったりすることは徐々に少なくなるでしょう。心にまことの平安があれば、ことばや態度にもまことの平安があるのです。どうぞ心の中に良い倉であるイエスさまをお迎えください。アーメン
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」
イエスさまはいつも私たちの願いを父なる神に届けてくださっています。それだけでなく私たちの罪の弁護もしてくださっています。私たちが主イエスの御名によって祈るとき、父なる神は時を定めてかなえてくださいます。主イエスの御名によって祈る祈りは、イエスさまご自身が祈った祈りに等しいのです。アーメン
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